エンドレスエイトと意味飽和
ようやくエンドレスエイト終わりましたね。色んな意味でネットでは盛り上がっていたみたいで、今年の夏は「エンドレスエイトごっこ」(8月最後の2週間にこれでもかと予定を詰め込む)をする人が出てくるんじゃないかと思ったりもするのですが、さて。
8回も連続で続いてしまったアニメ版あらためて『涼宮ハルヒの憂鬱』の「エンドレスエイト」を考えてみるに、あれはやはり〈アニメそのものとアニメ視聴者とアニメ制作者をゲシュタルト崩壊させるアニメ〉だったなあと思うのです。
- 見ているうちに細かな差違が気に始める(演出・コンテ・作画など)
- 見ているうちに一部分だけが気になり始める(キョンくんでんわ、タイトル「エンドレスエイト」のレイアウトなど)
- あるいは映像の意味が飽和して何が何だかわからなくなる(さらに、つまらなくなる、苦痛になる、何も感じなくなる、怒る、すべてを越えてハイになる、などに分岐)
- 声優の演技がだんだんと映像から浮いてくる(かみ合わなくなる)
- 石原立也氏の演出・コンテが例の最終回並みにぶっとんだものになる
- (TV)アニメっていったい何なのかわからなくなる(変化がなくちゃいけないのか、DVDはこれで売れるのか、うまく動けばそれでいいのか、アニメとして面白いって何さ、など)
と、その他いろいろとあるわけですが、とりあえず「ゲシュタルト崩壊(意味飽和)」をwikipediaから引用しますと、以下の通り。
ゲシュタルト崩壊(独: Gestaltzerfall)とは心理学における概念のひとつで、全体性を持ったまとまりのある構造(Gestalt: ドイツ語で形態)から全体性が失われ、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象をいう。
ゲシュタルト崩壊 - Wikipedia
例えば生まれてから疑う事なく受け入れてきた周囲の環境や知識があり、ある時それらと全く違う世界を体験した場合、それまで持っていた自我、アイデンティティーの存在意義について自らが立っていた土台そのものが崩される思いをする現象である。
このように解釈するなら、何度も何度も似たようなものを繰り返すことによって「エンドレスエイト」そのものがゲシュタルト崩壊し、さらにこのエピソード群で『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品やアニメそのものの存在意義や土台がゆらぐというのは、その通り過ぎる事実なのでしょうね。
しかも、ここで視聴者がどう反応するかで、その人物がそれまでどのようにアニメ(あるいはハルヒという作品)を見ているかということも露呈してしまう、と。ハルヒ信者なのか長門好きなのか、作画ヲタなのか腐女子なのか、アニメユートピアの住人なのか云々。
個人的には、2006年のときから視聴者をおいてけぼりにした時系列シャッフルとかひどいことをやってるから、「エンドレスエイトは視聴者をないがしろにしている」と言われても、昔からハルヒはそんな女だったじゃないか何を今さら、むしろ「さすが涼宮さん」と苦笑しかできないですよ、と思います(実世界でも古泉的役割でリアルハルヒさんを煽ってサポートしておりますので)。
この「エンドレスエイト」を主観的にどう評価するかはさておき、アニメをゲシュタルト崩壊させたという点では、間違いなく事件なのでしょう。