Baker Street Bakery > パン焼き日誌

ある翻訳家・翻訳研究者のサービス残業的な場末のブログ。更新放置気味。実際にパンは焼いてません、あしからず。

『ヱヴァ序』と『サマーウォーズ』における居心地の悪さ

こういうことを書くのは気がすすまなくて、人様に読んでもらうものなのかどうかもわからないのですが、思いの外みなさん違和感を口にしてらっしゃるので、それに乗っかって私も一個人の戯れ言として。
サマーウォーズ』の上映が終わった瞬間、とても居心地が悪かったんです。スクリーンが明るくなって、周りのみんなはわいわいと言いながら満足げに帰っていくのに、どこか自分だけが、というか自分の心だけが取り残されたような、疎外されているような感覚に襲われて。

何だろう、いったい何だろう……と思っているうちにふと気づいたのは、これと同じことを『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』のときにも感じたということです。そうだ、あれと一緒だ……と思いつつ、ぼんやりとしながら自転車を漕いでレイトショーの会場から下宿へと帰ったのですが。

言うまでもなく、この二作品には共通点があります。『ヱヴァ序』(二〇〇七)は『新世紀エヴァンゲリオン』(一九九六)の再構築で、『サマーウォーズ』(二〇〇九)は『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』(二〇〇〇)の再構築――個人的事情も合わせるなら、どちらもまだ自分が思春期の頃に見て、それを大人になってもう一度見ているのだということ。

……そしてさらに言うなら、見てしまったあとで「元のものより劣化している」と感じたことです。

けれども、その主観的感想はおかしい、と自覚もしています。もっと自分に客観的に厳しく言い放つなら、「自分はこの作品に対してリアリティを感じられなかった」でしょう。老いてしまった、と言い換えることも可能かもしれません。(そこでひねくれて「何が・誰が」をとりあえず棚上げにすることもできますが、しません。)

少なくとも、二〇〇〇年頃『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』を見た自分がこの作品にリアリティを感じたのは、それが「セカイ系」として「子どもたちだけの世界」で閉じてしまっていたからだ、と言うこともできます。当時の子どもたちとそのセカイ観がうまく合致した、とでも言いましょうか。

そのセカイがかろうじて成り立っていたのは『デジモン』という狭い世界(「核家族」の少ない子どもたちが集まって作る「ごく小さなサークル」)があったからこそなのに、この『サマーウォーズ』でそれが「田舎の大家族」に拡張されてしまったとき、ものすごい違和感を感じたのだと思います。

「……それはどこにあるの?」と。

主人公がどこにでもありえた子どもたちから、主人公を含めどこにもありえなさそうな人々ばかりになって、それを強引にセカイ系へ接続してしまう……。

私も一応、旧家の分家で大田舎には色んな親戚がいますが、それでもサラリーマンの多いこの世の中、さほど職業がばらついたりはしないような気がしないでもないです。でもそれよりも、『ウォーゲーム!』という佳作(でも子ども向けであることを免れない作品)を、単純に主人公側のプレイヤーを世代や職業のばらばらな大家族に拡張したからといって、それが即「家族みんなで見られるお茶の間ムービー」になるかと言ったら、やっぱりそれは違うんじゃないかと思います。

作劇上の都合で、全員が一箇所に集まっていた方が効率がよろしいのはわかっているのですが、『デジモン』の子どもたちならセカイ系の危機を受け入れるのは納得できても、あれだけの価値観の違う大家族が、いきなりあの状況を認識して受け入れられるかどうかがよくわからないのです。

少なくとも私の祖父や祖母や父母とこの作品を一緒に見て、楽しめるところを想像できなくて。きっと「コンピュータでネットワークでそれで世界の危機」とか言われてもぽかーんとしてしまうと思うので。それが現実になるには、まだあと10年くらいはネットワークやセカイ系の設定が足を引っ張りそうで(『ウォーゲーム』は20年早かった映画?)。とすると、ファミリー映画としての配慮が、やはり抜け落ちているんじゃなかな、と思えて。

だったら、こうしてあいだの10年後に作るのだからこそ、できることはもっとあったのではないかと思ってしまいます。みんなが何かしらの端末を持つネットワーク社会になりつつあるからこそ、自然に集まってしまうような大家族ではなく、「それぞれの年代のそれぞれの職業の多くの他人が、それぞれ危機を納得して認識できる形で(現実・仮想的に)集まって、そしてひとつに力を合わせて、何らかの危機を回避しようとする」というストーリーラインが作れたのではないか、そういう『ウォーゲーム!』の再構築もありえたのではないか、と思えるんですよね。その方が、家族みんながその内容を理解できたのではないかと。

そもそも、せっかく「OZは様々な端末でアクセスできる」という設定があって、現実では性別年代職業によって持つ端末が違うのですから、その設定はもっと有機的にプロットへつなげられたような気がするのです。

ひょっとしたら、危機は全世界に関わることですらなくてもいいのかもしれません。それよりもその個々の登場人物がそれぞれ持っている小さな世界を守るために、なぜか協力してしまう、という方がリアリティがあったかもしれません。大人が子どものセカイの危機に付き合うのではなくて、もっとセカイ系を乗り越えた作品を期待していたのですが……

「つながり」こそがボクらの武器……コミュニケーション……とは言っても、私にはつながっているようにも、コミュニケーションしているようにも見えなくて。もっと有象無象の、お互いにわけのわからないような人間同士がなんとかつながりあおうとして、コミュニケーションしあってこそ、戦えるんじゃないのかな、と。

大家族でもいいけれど、それならもっとめちゃくちゃに喧嘩別れしてて、おばあちゃんの誕生日だから仕方なく集まった、くらいの背景の方が良かったです。そんでもっておばあちゃんが亡くなって、それで一回四散するんだけれども、それぞれがそれぞれの形で危機を感じて、もう一度一緒になって頑張る、みたいな。個人的に田舎とか旧家とか、家長に年賀状が何千・何百枚と届く状況がリアルにわかるからこそ、大家族の描き方に違和感がありまして。

カズマは良かったですよね。一夏の成長を描くんなら、やっぱり主人公は彼です。そうすれば大家族への葛藤も描けたし……どんどん本気で助けようとする大人たちへのリアリティも作れたかもしれません……。

でも、実は大事なのはそういうことじゃないかもしれないのです。根本的に、アニメとして「気持ちよかったら」、こういう瑣末な破綻は気にしないでいいはずなのです。宮崎駿のアニメや『時をかける少女』が、少なからず破綻を有しているにもかかわらずアニメの力で押し切ってしまうように。『ヱヴァ:破』には、『序』になかった有無を言わせぬアニメそのものの躍動的な勢いがありました。でもこの映画にはそのアニメとしての力がないということ、それこそが違和感を感じたいちばんの原因なのかもしれません。

細田さんに全力でエールを送りたいんですが、この作品ではどうすることもできなくて複雑な気持ちでいっぱい。じ……次回作に期待していますっ!!