Baker Street Bakery > パン焼き日誌

ある翻訳家・翻訳研究者のサービス残業的な場末のブログ。更新放置気味。実際にパンは焼いてません、あしからず。

さよなら偶然の小屋、こんにちは儀式の社

 かつて映画館は、偶然の小屋だった。
 通りすがった小屋の先に立てられた映画の看板。そこから期待や想像だけを頼りになかへと入ると、そこだけで完結した世界が広がっている。何の前知識がなくとも映画はわかるように作られていて、それだけで楽しむことができる。いつ入ってもそうであったし、シリーズものであっても主人公や設定が同じというだけで、お話としてはそれだけで成立するものであった。

 興味あるものも興味ないものも関係なく、小屋での出会いが映画というものを届けてくれる。未知なるものとの接触――あるいはただ〈映画に行く〉ことだけが決まっていて、何を見るかは映画館についてからわかる(決める)。

 そして面白くとも面白くなくとも、映画は題名と俳優たちと数々のシーンの印象とともに、すべて思い出へと変わり、そして心のなかにおぼろげな〈映画〉なるものを残す。憧憬の対象たる映画がこうして作られる。

 だが映画のあり方は変わり、もはや映画館は以前と同じでない。偶然の出会いを与えてくれる魔法の小屋ではなくなり、言うなれば〈儀式の社《やしろ》〉と化している。

 映画は映画だけでは成立せず、TVのドラマやアニメが映画になる。そこでは映画は、それまでにあった物語の完成を、あるいはいちばんの盛り上がりを作るものとなる。そして映画館へはそれまでその番組を見ていた者たちが儀式のために集うのだ。物語の終結あるいは成功を祝福するために、あるいはそれを見続けてきた自分を完遂させるために。

 そこでは映画の外にある想い出や自己というものが大事になる。物語は映画一本だけでは完結しない。もし作品に心酔し荷担するものを信者と言うならば、信者でなければ楽しめないし、信者であればますます楽しめるものでもある。

 すでに旧来の映画という概念は、ここに崩れてしまっている。いかにウェルメイドな映画であっても、それが儀式化させられない限り、商業的には成功しない。TVという下地がなければ、その映画を宣伝によって何らかの形で人々の現実に接続させて、そこへ集わせなければいけない。

 茶の間で話題の有名人や芸能人、これを見なければ話題に乗り遅れるぞと言わんばかりの脅迫めいた振る舞い。全米が泣いた・××賞受賞といったキャッチフレーズだけでなく、試写会で見た人の感想を流すことによってその映画の共同体のうちに引き込もうとする。

 そしてウェルメイドな映画を見た人々でさえ、それを積極的に儀式化しようとする。電脳空間を使っての口コミは、〈ぼくらの「××」〉という特権的地位をその映画に与え、〈わかる人は「××」を見よう〉という言説を生もうとする。同じ映画を称揚することによって、ある種の信仰を共有しようとするのである。

 スタジオジブリの映画は、極端に儀式化されたもののひとつだ。何度も繰り返し完成度の高い作品がTVで放送されたことによって、その名前はブランド化した。そののちはもはや内容などどうでもよく、ただひたすらに祭りの雰囲気を盛り上げさえすれば、人は映画館に集ってくれる。

 そしてあらかじめ信者が一定数いると見込める作品であれば、映画化するだけで信者は映画館へ足を運んでくれる。なぜならばそこで儀式をしなければならないからだ。映画化おめでとう、みんなで祝おう、そして物語の完結を成功を見届けよう。

 たとえ中身の出来がTV版とさほど変わりがなくとも、人が集まるという場所のアウラがあればいい。映画はTVよりも一段偉いものというもはや形骸化したとすら思えるイメージさえあればいいのだ。

 DVDとして買うよりも、物を残すよりも、映画館という雰囲気やアウラを求める。ひとりで見るよりも、みんなで映画を前にする。信者と作品が一体化した祝祭の空間をよしとする。それぞれが誰であろうと構わない、ここに来ているだけで作品が好きだということがわかるから。これまでその作品と長い時間を接してきた仲間だとわかっているから。

 しかしそれだけに、そこで示される映画の内容や関わる者には、宗教としての純粋性を求める。雑莢物など不要であり、信者の側から愛がないと認められるものについては、排除作用が働くのである。

 たとえば部外者としての芸能人もそうだ。これまで信者共同体に認知されてこなかったにもかかわらず、場当たり的に侵入してきたり信仰を吐露しようものなら、信者は揃って非難の声を向けるだろう。

 あるいは信仰の文脈をふまえない字幕もそうである。単純な出来不出来よりも、これまで信者の培ってきた作品イメージの集合体を無視したという点によって、批判されるのである。多くの時間をともにしてきた(そして互いにイメージを共有してきた)信者たちにとって、たった一週間程度しか作品に付き合っていない字幕制作者の解釈など、受け入れられようはずもないのである。

 つまり、逆にすでに儀式化された作品については、このような既存の信者層に頼らない(あるいは無視した)捏造を行ってしまうと、たとえ人気のあるものであっても、〈儀式ができない〉という理由から、信者は頑として映画館へ集わないだろう。

 映画館という場所は、今やこういうものになっている。

 さよなら偶然の小屋、こんにちは儀式の社。

 ここで私は前者をノスタルジィによって称揚し、後者を新しき頽廃として非難しようとしているのではない。私もまた、様々な作品において信者として映画館に集う者であるし、それを楽しむ者でもある。

 しかしそれでいて、過去の映画においては偶然の出会いをしてきたにもかかわらず、今の映画館へは信者としてしか向かわないことに内的な違和感を抱く者でもある。感じた瞬間に胸がざわつく、何だこれはと。

 時代が変われば場所の性質というものも変化し、人々もそれに影響されざるを得ない。私とてそれは例外ではなく、今を生きている人間だからこそ、如実に反映される主体でありうるのだ。

 だからこそ、さよならとこんにちはを自分のなかで告げなければならない。

 さよなら偶然の小屋、こんにちは儀式の社。

 私はこれからも映画をみるだろうし、それをやめることはないだろう。しかしその私は常に変容し続けるのだろう、映画や映画館とともに。