Baker Street Bakery > パン焼き日誌

ある翻訳家・翻訳研究者のサービス残業的な場末のブログ。更新放置気味。実際にパンは焼いてません、あしからず。

直視の不安――キィは何/誰を見ているか(『KEY THE METAL IDOL』)

〈カメラ目線の気持ち悪さ〉というものはテレビを見る人なら誰でも感じたことがあると思う。居心地の悪さというふうに言い換えてもいいかもしれない。カメラがある一面の映像を切り取る以上、〈カメラ目線〉というのも意図的なものであり、そのためカメラを見ている人物の視線を必要以上に強く感じてしまう。

 その〈意図〉が場合によっては強すぎになるため、映像を通して直視される視聴者は不安に陥ってしまう。カメラを直視する人物の意志や勢いが強烈に感じられるため、画面に向けた気持ちを一歩引かせてしまうのだ。しかし、ときにはその〈不安〉というものが、映像としての崩し・キャラの不安な感情・物語上の揺らぎを効果として表現することがある。
 OVAシリーズ『KEY THE METAL IDOL』(1994〜1997)は、そういった〈直視の不安〉を、主人公の性格・性質および物語の根幹とに絡めた作品だ。主人公は巳真兎季子という一七歳の少女(図1)。山奥の田舎で祖父と共に暮らしていたが、その死と遺言を機に都会へ上京してくる。そしてその遺言というのが「三万人の友人ができたら、お前は本当の人間になれる」というもの。この兎季子という少女(作中ではキィというあだ名で呼ばれる)は、祖父に〈ロボット〉として育てられたため、自分をそうだと思い込んでいるのだ。

 作品としては「なぜロボットと思い込んでいるのか」「もしかして本当にロボットなのではないか」「三万人の友人を作るためにはどうすればいいのか」という謎を軸にして進んでいくのだが、その設定上、平常時のキィの感情や表情はほとんど絵的な変化では表されない*1。無表情であり、また声にも抑揚がない。しかし感情がないわけではなく、時折「やっぱり怒ってるじゃないか」「そりゃもうびっくりですよ」などと淡々とつぶやくように、自分の感情も他人の感情も理解し、それを言語化はしている。ただ、それは映像としての〈表現〉には行き着いていないし、視聴者もそれを強く感じることはない。その平板な感覚は、シリーズ開始直後の段階で彼女を〈ロボット〉と感じさせるのにじゅうぶんでさえある。

 だがキィの感情が映像としてまったく表現されていないかと言えば、それは違う。むしろ絵的な変化をあえて排し、別のやり方で巧妙に描き出されているとも言えよう。それが〈不安の直視〉だ。

 映像を気を付けて見ていれば、キィが不安に陥ったとき〈カメラを直視〉するのに気づくことができるだろう。第一話冒頭の祖父が死亡しているシーンでは、その祖父の遺言を聴きながらキィはカメラを直視する(図2)。普通、カメラ目線はさきほども述べたように人物の意志を強く感じるため、こちらが不安になるはずなのだが、キィ自身が意志を表出する力に欠けているため、迫力はさほどない。そのため見ていても軽く流れてしまうくらいの場面なのだ。

 キャラがカメラを見ていても、それをすぐ〈不安〉に結びつけるのは読み手として拙劣だと言われる方もあるかもしれない。しかし映像的には周到に準備されていて、このシーンの少し前で、キィが〈自分がロボットと信じ込んでいるため〉同級生にいじめられるシーンが流されるのだが、ここであえて不自然なカメラワークで一瞬キィにカメラを直視させてさえいる(図3)。キャラの心の窮地=直視、と事前に提示することで、気づかれないうちに視聴者に〈直視の不安〉をテーマとして刷り込まそうとしているとも言えよう。

 そしてさらに大事なのが、この〈直視〉の際、キィは何/誰を見ているのかということだ。いじめのシーンの場合、確かに目の前には水道の栓があるが(図4)、それが映像として直接的に見せられるわけではない。映像で人物に直視させるとき、通常はその強すぎる印象を利用する(薄める)ために、そのあとリバースショットを行う。つまりカメラを一八〇度切り返して人物の見ているものを写すことで、その対象への印象を強めるのだ。

 ところがキィの不安な視線はほとんどリバースされない。視線の先は写されることがないのだ。先に出した祖父の死去のシーンでは、その対象すら存在しない。一見して前に祖父の助手がいるようにも見えるが、直視すると微妙にずれることも映像で描かれている(図5)。この微妙なズレはこのあと何度も繰り返される。

 第二話のアヴァン、幼なじみのさくらと別れるシーンも特徴的だ。ここではリバースされるにもかかわらず、視線がずれる(図6)。単純に考えれば、キィの手の方向こそがさくらのいる方向であるはずなのに、なぜか視線はそちらを向いていない。さらにそのあと離れていく列車を見送るキィも(図7)、この線路の曲がり方だと視線の先にはさくらはいないはずなのだ(図8)。

 そのあとも、追っ手から逃れたあとのさくらの部屋のシーンで、妙な直視がわざわざ挿入される(図9)。これもどこを見ているのかわからない。というよりは、このカットは〈キィの直視はどこを見ているかわからない〉とあえて強調するためのものだとも言える。わざわざ参照物の鏡まで出して、〈キィは鏡ではないものを見ています〉と言いたげな映像だ。

 極め付きはこのカット(図10)。キィが事故(?)により倒れてしまったあと、さくらが心配しているシーンで、キィが「よくわからない、なんでキィ寝てたんだろう」とつぶやいたあとに挿入される。なお、このあとさくらに対してちゃんと視線を合わせ直す動きがあるので、その直前のこの視線の先が彼女ではないことは確かだ。

 不安になったときキィはカメラを直視する。なぜか。それこそがこの物語の根幹でもある。なぜなら実は、その〈不安の直視〉の先には〈物語〉としてちゃんと対象物が設定されているからだ。気を付けねばならないのは、それは〈場面〉として、ではなく〈物語〉として、である。

 それはこの作品の一巻分(発売当時は一話分)が終わったときに明かされる。予告が終わったあと、次のような文章が表示されるのだ。


「このビデオを見ているあなたは/キィの夢を叶える3万人の1人です。/あなたの情熱で/キィが人間にメタモルフォーゼできるのです。」(図11)

 不安というのは人間に自然な感情だ。キィはそれを感じていても、人間として表情に出すことができない。それゆえ二重の不安を抱えてしまう。そんなとき、キィはカメラを直視する。そしてカメラの向こうを見るのだ。そこにいるはずの視聴者に向かって。三万人のうちの一人かもしれない相手に向かって。

 不安になったとき、キィはカメラの向こうに「自分を人間にして」と訴える。そこにいるはずの「あなた」に対して、無言で意志を伝えようとする。キィは人間になるために都会へ出てくる。キィは人間になりたいのだ。たとえキィが無表情であっても、その〈行動〉は物語上疑いようもない。そしてキィが不安に包まれるとき、カメラを直視することによって、その意志が、そのテーマが繰り返し強調される。

 映像が作り出すこのキィと視聴者の共犯関係は、最終巻の最後の最後まで維持される。『KEY THE METAL IDOL』はさほど有名なアニメではないし、知る人ぞ知るといった具合の作品だ。ただその作品を愛するものの愛し方は強烈だ。いわゆるコアな人気、カルトな人気を誇っているとも言えよう。だからこそ、製作開始から10年経ってひっそりとDVD-BOXが発売されたのだし、また2009年にもLIMITED BOXとして再販される。

 こうしてキィが人を引きつける理由は、見るものを映像のなかへ、物語のなかへ引き込もうとするキィ本人の〈直視の不安〉にあるとも言えよう。映像・物語・キャラ・視聴者、そのよっつが一体となる時間と空間が、『KEY THE METAL IDOL』にはある。

KEY THE METAL IDOL』(1994〜1997:OVA
原作・監督・脚本:佐藤博暉
キャラクター原案:田中久二彦
キャラデザ・作画監督:石倉敬一
アニメーション制作:スタジオぴえろ
(本文中の画像の著作権は、アニメ製作者に帰属しています)

KEY THE METAL IDOL LIMITED BOX【初回限定生産】 [DVD]

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*1:ただし、キィが〈秘めた力〉を発揮するときは別である。キィ本人もそれが自分だとは気づいていない(覚えていない)ので、以後、いわゆる〈ロボット〉のキィとは便宜的に別人として取り扱う。