Baker Street Bakery > パン焼き日誌

ある翻訳家・翻訳研究者のサービス残業的な場末のブログ。更新放置気味。実際にパンは焼いてません、あしからず。

唯研104号「アニメ批評のエクソダス」非公式編集後記

【お詫び】
季報『唯物論研究』104号「アニメ批評のエクソダス」、巻頭インタビューにおける「アニメライターの立場」についてのインタビュアーの発言に、事実誤認があるとのご指摘を受けました。不明を恥じるとともに、関係者のみなさまに多大なるご迷惑をおかけしたことを、心よりお詫び申し上げます。(2008/6/26)
修正 p.13 c.2 l.10 「アニメ雑誌」→「アニメ制作会社」(2008/8/1)


どうもこんにちは。予約した人はもうそろそろ届いている頃でしょうか。季報「唯物論研究」お買いあげどうもありがとうございます。まだお買いになってない方、本日より正式に発売がはじまります(販売ページ)。よろしくお願い致します。

さて皆様、読んだ後の感想は色々あると思います。正直ヤマカンと更科以外イラネとか、金返せとか、とりあえず文章難しくて訳分かりませんとか、十河にえ浮きすぎとか、まあそれはそれとしまして、せっかく買って頂いたので、1200円分は楽しんでほしいということで、編集者として個人的に非公式な解説をしようと思います。それでは、本の目次順に。

◆「アニメ批評のエクソダス」リード文

細かく言うとややこしいのですが、だいたいの担当は2の執筆が私。簡単な疑問として思い浮かぶのは「なぜヌーヴェル・ヴァーグのアニメが批評にとって必要なんですか」ということ。それは、ヌーヴェル・ヴァーグのアニメというのは、そもそもその作品内部にアニメそのものへの批評的要素や意識が入っているわけです。クリエイタなら誰でもそういった意識は持っていると思うのですが、それを意図的に突出させると、ヌーヴェル・ヴァーグのアニメになる。そうすると、そのアニメの批評的要素を指摘することによって、「アニメはこんな点から批評できる」ということがわかりやすくなるんですね。もちろん、何もないところからそれをやってもいいんですが、それは必ずしも「誰にでもわかる」ものにはなりえない。突出したものを題材に語ると、誰にとってもわかりやすくなるんです。

そのことを前提にして、じゃあ批評家は何ができるかというと、私はふたつあると思います。

  1. これまでの作品でヌーヴェル・ヴァーグだったものを探し出す
  2. ここをやればヌーヴェル・ヴァーグだ!とアニメ制作者を煽る

エヴァ』ってヌーヴェル・ヴァーグを失敗してるくせに、庵野さんは新劇場版で「この10年、アニメにエヴァより新しいものはなかった」とか言うわけですよ。正直、悔しくないですか? 私はエヴァの失敗したヌーヴェル・ヴァーグを補おうとしてきた作品はたくさんあると思うし、GAINAXを言えば『フリクリ』とかは『エヴァ』より上だと思います。撮影とか色彩設計の話をすれば、『ef -a tale of memories』の方が数段上でしょう。ただ、話題を作れなかったっていうだけで。その作れなかったという点を、山本さんは大きなポイントと考えていて、批評家が率先して話題作りをしてもいいんじゃないの? 見つけてもいいんじゃないの? むしろしなくちゃいけなかったんじゃないの? という話にもなるんではないかと。

◆「アニメ批評家はまだ生まれていない――山本寛インタビュー」

私の担当分です。まず、「かんなぎ」の情報が入ってないのは、発表前のインタビューだったからです。それと『オトナアニメ』さんで語っていた内容からは、意図的に外れるようにしました。内容は多少編集しましたがほぼノーカット、本当にどうしてもやばくて使えなかった箇所はひとつだけでした。

批評がなぜ必要なのか、批評家がなぜ出てこないのか、について語っていただきました。アニメのヌーヴェル・ヴァーグ云々は、この記事を読んでくださいね。

キーワードは「蓮實」です。この話をもうちょっと捕捉すると、とりあえずアニメを語るときに、私を含めてネットの人たちは「絵」を、つまり「作画」を見ることが多いのですが、これがつまり注釈にあるような「蓮實的」な表層批評です。作画を論ずることは、すでにいくつかの雑誌や媒体で行われていて、たとえば「アニメーションノート」さんだとか「アニメスタイル」さんだとかがあるわけですが、それを映画批評の歴史に当てはめてみると、まだ「蓮實」の段階にまでしか行けてない、と。実は、作画の話はもうすでに潤沢な論や土壌があるということで、あえて今回の特集から外したのですが(あといわゆるオタク論も外しました)、誰かがその先の批評に向かわなきゃいけないわけです。

アニメってやっぱり、作画以外にも声優とか撮影とか演出とかあるわけじゃないですか。その総合芸術であるわけで。私は今回、本当は以前のエントリにあるみたく「絵コンテ論」がやりたかったんですが(諸般の事情でできてないんですが)、じゃあそういう技術論や表現論を誰がやるんだ、という話になる。

そんなこと2ちゃんでさんざん言われてることも知ってますし、私も個人的にすごくそう思います。でも、2ちゃんで語られることを本まで持っていこうと思うと、結構大変。原稿を依頼するときも、基本的に連絡先がないと頼めませんから、少なくともブログで書いてる人か、どこか表舞台に出てきてる人がいないといけないんですが、そこがなかなか。

私の場合は、絵コンテか脚本、あと声優と作画(と、そのあたりを軸にしたアニメの芝居論)しかしゃべれません。撮影論の書き手、本当に誰か出てきて欲しいです。

◆大久保ゆう「ぼくとセカイのはじまるところ」

で、絵コンテの話もせずに何こんなアニメ批評でないものを載せているんだ、という話ですよ(セルフつっこみ)。

そもそもこの文章は、およそ1年前に書かれています。アニメ批評家集団はそもそも個人制作アニメの批評がメインで、あるコンテストの作品をたくさん見ていたときに、私が「セカイ系が多くて辟易します」と発言したら、「セカイ系って何?」と聞かれたので書いた文章。なので、そもそもの射程は商業アニメではなく、アマチュアアニメの作り手に対してです。(なので、この特集とはズレてます)

ではなぜそんなものが載ってるかというと、この文章があらかじめあって、それを利用して「こういうものがあるんで特集できませんか」と、1号分の特集をかっぱらってきたという経緯があるからです。本当はこの2倍くらい長さがあったんですが、特集が押さえられてからは、さすがに申し訳ないので半分に。

簡単に言うと、東浩紀さんとかのセカイ系の話は、どうしても世代の上の人が話している感が否めなくて、14歳でエヴァを見た連中の実感を書こうと思い、結構何人も取材した上でこの文章を作りました。だって、私たちの世代って「引きこもり世代」というよりは、「ハルヒ世代」って感じがしますし。「引きこもり世代」はやっぱり私よりも4つ以上歳が上の世代かな、と。

この文章の意味としては、「世代感覚の吐露」と「セカイ系は時代的なもので終わったから個人制作アニメでもうセカイ系やらなくていいよ」というメッセージ以外、取り立てて何もないですから、構成の固まってきた編集後半は、取り下げたくて仕方なかったです。

やりたくてもできなかったことは、その後、インタビューの注や用語集、十河くんの記事のあたりに紛れ込んでいきます。

◆倉橋克禎「アニメ批評宣言に向けて」

「思想地図」に黒瀬陽平くんの表現論が載りましたが、それと同じ土俵で批評をしたのが、倉橋さん。同じく美術分野の話としてアニメを見ています。

簡単に言うと、アニメは時間とともに動くものなんだけど、でもアニメの中で時間が止まるような瞬間ってありますよね。そういう瞬間に、アニメのアニメたるものが逆説的にあらわになる、という理解でいいと思うのですが、そうすると、ひとつの「動画論」と考えていいのだと思います。

動いていないからこそ、動いているときの意味がわかる、っていうのは面白いですよね。動いているときは、魂がある(アニメーション)で、動いていないときは、逆に魂がないから、つまりアニメにおけるその瞬間は、キャラクターの主体性が奪われているという意味になるのだと。

じゃあ、出崎的な止め絵はキャラクターの主体性を奪っているのか?という話にもつながるわけですが、たとえば『あしたのジョー』のラストシーンは、止め絵で思い切り矢吹ジョーの主体を奪ってますよね。あるいは、アニメは何でもいいのですが(「美味しんぼ」とか)、各話の最終シーンで止め絵を使ったとき、それはアニメそのものの主体を奪って宙づりにする、だからこそ来週につながる、みたいなことも言えるわけです。

ハーモニーや止め絵のアニメ表現論的意味は? という考察にもつながる一本だったように思いました。

◆塩沢由典「トランス・ジャンル・クリティークに向けて」

私たちの後見人、塩沢先生の論。アニメ慣れしている人から見ると、ちょっと用語の処理が甘いような感じにも見えますが、基本的な論旨としては、最近のアニメ業界でよくつぶやかれている「最近のアニメはドラマが弱い」という話に、「時間展開型ジャンル」というキーワードで答えを与えたものなのだと思います。

たとえば、なぜいわゆるギャルゲなどのアニメ化が、よく「ドラマの希薄」でポシャってしまうのかということは、この考えで割と答えられると思うんです。つまり、確かにジャンルを超えるとき、いわゆる「キャラ」でも確かに越えられるんですが、キャラに頼りすぎると、どうしてもアニメ作品として弱くなってしまう。なぜなら、アニメというのは、そもそも時間展開する芸術で、キャラをたくさん持ってきて置いたからといって、うまく時間が動くわけないんですよね。

むしろ元の話が分岐型だと、それぞれのキャラの持ってる時間が錯綜して、時間展開を紡ごうとしても空中分解してしまう。だからやっぱりドラマのことを考えるなら、アニメの時間展開性を重視して、そいつをトランスジャンルさせた方がいい、と。

実は草稿段階では記述があったのですが、「ひぐらしのなく頃に」がアニメでもそこそこうまくいったのは、そもそも原作が分岐のしない作品だったからだ、というのがあって、なるほどな、と思いました。また、この時間展開性を軸に置くと、ドラマとしてのアニメ版『true tears』の成功と、京アニ版『CLANNAD』の失敗がよく見えてくると思います。(商品としては『CLANNAD』は成功しているとは思うのですが……)

◆清水知子「ナチュラリストと〈漫画映画〉の時代」

色々アニメ論をやるんだから、アニメ史的な話もないと特集として嘘ですよね。というところで、清水さんの本格的な論文を一本。射程を少し大きめにとって、内容としては、先の倉橋さん、塩沢先生のものとクロスさせて読むと面白いと思います。

史的といっても、最近だけではなく、戦前にまで遡って、「文化映画」とアニメーションの関係、そして山本さんのインタビューのなかでも出てきた今村太平さんの『漫画映画論』が中心に絡んできます。といっても、何もこれは事前に打ち合わせをしたわけではなく、ちょうどうまくそれぞれの論が有機的につながったんですね。

確かに、今アニメが好きな人や、アニメを作っている人で、『漫画映画論』はどれくらい読まれているだろう、と考えると、ちょっと心細いものがあります。アニメこそ真の意味での映画である、というふうにも考えられますし、そういうことをもう何十年も前の時点で言えている、というのは、やはり注目すべきことでしょう。

今村さんをはじめとする過去のアニメ論は、この論文のなかにある引用を拾い読みしただけでも、含蓄があって面白いです。マンガ批評のときも、よく初期に問題になったのが、「過去の文献を読まない」という問題。巻末の地図を作っているときも「資料は読もうよ」と思うものがいくつもありました。自戒を込めて。


更科修一郎「消費環境整備としての批評」

更科さんも私の担当。山本さんと更科さんの言葉を世に出せただけで個人的には満足しているところがあるのですが、修正稿をいただいた日には、もう興奮して眠れませんでした。

いかに批評が封鎖されていったか、という生々しい話なのですが、ブログですらアニメ表現論をやる人がなかなか出てこなかったり、作り手が受け手を、ある種、批評的に啓蒙するという行為ができなかったりするのも、このへんに理由があるのかもしれません。

やっぱり、作り手がしゃべらないと受け手にはわからないこと、というのが厳然としてあるのだと思います。でも、業界は批評家だけでなく作り手にもしゃべらせないようにしている、と。でもそうすると絶対、批評のレベルっていうのは上がりませんよ。

それでもどうしてもしゃべりたい業界人は2ちゃんへ行くわけですが、どうしても長文にはできないし、やっぱり届かないところには届かない。作画wikiみたくちゃんと残せているといいんですが、流れちゃう話も多いわけですよね。wikipediaには出典として認めてもらえないし。どうしても紙でやることの重要性って、まだあるんだと思います。

別に貶す必要はないんですよ。ちょっと色んなアニメ業界人が集まって、ここのこんなところがすごかったよね、って、普通の人がわからないようなところを指摘するだけでもいいんです。それを紙に残すことに意味がある。でもそれすらさせずに宣伝しか認めない(やらせない?)っていうのは、どう考えてもおかしいです。

様々な批評あってこそ、アニメのレベルアップが望めると思うのですが。

◆高山博「僕と君と美しきセカイ」

発行前の時点で、この論が一番人気でした。アニメ表現論って考えたとき、単純には「動画」の話になるのかもしれませんが、でも「アニメとしてアニメのなかにあるもの」を考えたとき、アニメというジャンルで特殊な発展を遂げた「アニメ主題歌」と「OP・EDアニメ」もじゅうぶんアニメ表現論たりうるはずです。その意味で、ここまで徹底的に分析したことは、この号の収穫であったと思います。

この論、発行前から噂になって、高山さん、どこかの学校でアニメ主題歌の講義をやったらしいですね。あと、編集作業時に面白かったこととしては、査読と校正のレベルが高すぎて、誰もついていけなかったこと。「うおお、何だこのハイレベルなやりとりは!」という状態だったらしい。

私ごときの浅い知識では何とも感想が言えないのですが、おそらく推敲の過程で記述が切られてしまったであろう「宇多田ヒカル特有の立場の不安定性」については、草稿の段階で確か二点聞いています。

  1. 日本語と英語のバイリンガルであること
  2. 15歳で歌姫(戦闘美少女)になってしまったこと

1は俗に言う「アイデンティティクライシス」を引き起こして、主体を日本語に置いていいのか、英語に置いていいのかわからなくなってしまうということ。2は、ある意味シンジくんのように、14歳でエヴァに載せられたように、15歳で有無を言わせず(?)いきなり歌姫にさせられ、そのままずっと乗り続けているということ。

前者は書いてありますが、後者はどこかへ消えてしまいました。う〜ん、割と好きだったのですが。

◆山本貴之「現代社会を反映するアニメ」

もう一人の山本さん。こちらも私の担当。いちばん季報「唯物論研究」プロパーな論文かもしれません。論文の見本ともいうべき感じ。

せっかくなので、採用されなかった査読段階のやりとりを拾ってみると、刹那の「俺がガンダムだ」っていうキーワードがありますが、あの台詞の場面で、「画面に刹那が映ってるかガンダムが映ってるかの違いは大事なんじゃない?」というコメントがついて。そうすると「それを考えるなら勇者シリーズにおける見得の類型も考えた方がよくないですか?」と筆者より返答。つまり、ロボットの名前を叫ぶパイロット、というのは今までざらにいるわけですよね。それなのになぜ刹那だけ、その言葉が異質に感じるのか、というのは、ちゃんとこれまでの類型を踏まえないとアニメ表現としてあぶり出てこないと。

(ちなみに、勇者シリーズだと、ロボットのみの場合と、パイロットがカットインする場合の2パターンある、ということでよかったでしょうか……記憶が曖昧です。刹那の場合は、外観は映らず、コクピットのなかが映ります。)

加えて、そのときの声が加工されているかされてないかとか、そこからマニアックな方向に進んだため、あえなく最終稿には反映されなかったのですが、ある種、こういう風にストレートに社会を読み込むにしても、そういう切り方をすれば、アニメをアニメとして見ることは可能なんだ、ということが少し見えました。

◆沖本真也「CGアニメーションの現状と将来の可能性」

短いレポートなので、あまり内容についてコメントすることはないのですが、いつも思うんですけど、「モーションキャプチャー」の功罪って色々あるように感じます。

ぬるぬる動きすぎると、やっぱり表現として甘く見えるんですよね。だったらアニメじゃなくて実写でいいんじゃない?みたいな。個人的にはやっぱり3DCGでも、モーションキャプチャーするにしても、コマ打ちして欲しいし、場合によってはちゃんとツメたりしてほしい。アニメの「表現」を意識するっていう意味で。

◆十河にえ「萌えないゴミと萌えるゴミ」

私の担当。企画段階で落ちてしまったのとか、一本の論としてまとまらなかったものを、結構えいやっと詰め込んでもらってます。書き方としては、いちばん山本さんのインタビューにあった話に近いかも、というのは、そのものずばりインタビュー後に作られた原稿だからです。

作画や脚本、声優とか絵コンテとか業界ネタをあれこれをやった、一種のキャラ評論(VNI風)。読みやすくて、おそらくブログのアニメ感想になれている人は、こっちの方がよいのかもしれませんね。

たとえば、絵コンテの話は私からのネタ提供。でも、「出崎版『CLANNAD』のタイムシートっておかしくないですか?」と言って、日本で何人の人がうなずいてくれるのかはすごく不安。海外みたいにプレスコじゃなくてアフレコが大半の日本のアニメでは、ドラマの時間とか演技の間とかが、役者や編集じゃなくてほとんどタイムシートで決まっちゃうんですよね。ここのセンスが悪かったりミスしたりすると、アニメも全部ズタボロになる。

ということを、色んな例を挙げつつ書きたかったな、と思っていましたが、さすがにひとりで何本も書くのはどうかと思ったので、今回は裏方の編集に徹して、引き下がりました。

◆「アニメ批評地図」

そして、その代わりに特集としてこちらの制作を優先。にもかかわらず、印刷でずれちゃってます!(泣) 製版でミスっているので、たまたま一冊だけ落丁とか、そういうことじゃないそうです。仕方がないので、修正版を置いておきますね。→(PDF

ついでに、雑誌二冊を追加してあります。「メカビ」はとりあえずそのまま。この原稿作成の苦労は、とにかくお金がかかったこと。雑誌を全部買いそろえるだけでとんでもない値段になりました。

ちなみに数字は質じゃなくて量です。数字が高いからといって、すごいというわけではありません。純粋に、雑誌に占める割合がどれくらいか、ということです。そうじゃないと、普通に考えて「アニメージュ」や「ニュータイプ」の数字が低すぎますからね。

ただ、これも草稿はずいぶん早い段階で作っているので、それぞれの情報の鮮度に差があるかもしれません。

〈宮崎アニメ論書誌〉の方は、本来すべての本に短評がついていたのですが、ページ数の都合で削除。内覧用の辛口だったから、あまり人に見せられたものではありません。

批評誌はありません、表現論を詰めていきたいんです、という布石のための原稿。これをやっておかないと、この特集の前提と将来が見えなくなるので、編集としてのお仕事をしました。

◆用語集

と、色々と全体を見回したときに、元々の季報「唯物論研究」の読者層には少し不親切であること、そして批評特集の割には、今の作品をあまり褒めてなかったことに気が付いて、滑り込ませたのが用語集。

少ない文字数でいかに多くの作品を薦められるかを考えた場合、「監督」という指標がいちばん有効であると判断してこうなりました。山本さんのインタビューでも「監督」というラベルについての話が出てますが、確かに絶対的クリエイタとして扱うのはダメだけど、もちろん「ディレクション」する人としてその腕前を見ることは重要だし、同時にその監督の持つ人脈やグループの作風を含めて考えるときの「固有名詞」としては使えると思います。

それぞれの説明では、そのあたりを意識しながら、できるだけ今のアニメ(あるいはヌーヴェル・ヴァーグのアニメ)がわかるようなラインナップを選んだつもりです。書き方はインタビューの注とあまり差をつけてないはず。

◆編集後記

一応、リード文と編集後記を読めば、今回の特集の立ち位置はよくわかるようになっていると思います。何が長所で、何が短所であったかをも含めて。この先どうなっていくのかはわかりませんが、アニメについて考えることは続けていくと思います。


さて、ここまで簡単な解説じみたものを書いてきましたが、もしこの特集に関する感想、質問、メッセージ、文句、罵倒、叩き、煽り等がありましたら、コメント欄かメールにてお寄せください。ちゃんと返事できるかは怪しいですが、個人宛の感想やメッセージの場合、可能な限りその人物までお伝え致します。

ここまでお読みいただきありがとうございました。