Baker Street Bakery > パン焼き日誌

ある翻訳家・翻訳研究者のサービス残業的な場末のブログ。更新放置気味。実際にパンは焼いてません、あしからず。

アニメと狂気(『崖の上のポニョ』)

 最初に断言しよう、アニメは元来から狂気を孕んでいるものであった、と。そうだ、誰がなんと言おうと、アニメは「狂って」いるのだ。だからこそアニメなのだ。

 実写の場合、映像はカメラを通して現実を撮影されるものだ。それゆえに、そこに映るモノは、基本的に現実そのままである。加工しない限り、物理世界の法則を無視することはないし、人は人として映る。どれだけ狂おうとしても、カメラが現実の光を反映しようとする限り、すべては物理世界の光に拘束されざるを得ない。きわめて理性的なモノであるとも言えるだろう。

 だがアニメは違う。何かしらの絵を描き、それをつなげて時間を与えた瞬間に、その映像は狂っている。様々に変化していく映像は、目に映る物理世界の法則を無視し、その境界を違反していく。アニメという場では何もかもが自由であるがゆえに、その混沌をそのまま表現すれば、我々の物理世界からは狂気というほかない。
 それゆえに、アニメにはいくつかの方向性を有している。ひとつは、その狂気を正気に近づけていくことだ。本来、狂気であるはずのアニメに秩序を与え、現実を整理していく役目を与える。個々の事物を分節化し、境界を与え、見えるものと見えないものに区別する。そしてあたかもリアルであるかのような、あるいは魂を持ったかのような空間と映像を作り上げるのだ。

 しかし完全に正気になってしまえば、それはカメラの映像と大差ないものができあがってしまい、そうすると、そもそも狂気を孕んでいるはずのアニメで作る価値がなくなってしまう。そのため、狂気と正気のバランスで「気持ちのいい点」を探して、それを現出させるという使命をも見いだすことができるだろう。日本のリミテッドアニメは、常にその点を希求してきたと言ってもいい。カメラで捕らえられた整然たるものとは違い、現実から見れば狂っているが、魂を持ち、そしてリアルと感じられ、さらに気持ちいいとも思えるもの。それこそ「アニメの表現」であり、それを語ることは「アニメの表現論」につながるはずだ。

 そして宮崎駿は、その「狂っているが気持ちいいもの」を作ることにかけては、抜群のセンスを持っていた。もちろん、彼の映画も集団制作であるから、宮崎駿=宮崎アニメと捉えるのは早計であろう。しかしながら、宮崎駿の監督能力は、その集団で作り上げる映画を、絶妙な「気持ちよさ」を持つ狂気の地点に持っていくことができる。実写ではありえない快感を、法悦を、アニメから引き出すことができたのだ。

 だが、ポニョだ。『崖の上のポニョ』だ。一言でこの作品を表すとしたら、「狂気」だ。「狂気」そのものだ。そして「アニメ」だ。それ以外の言葉で呼ぶことができない。どんなレッテルをも貼ることを拒否する、限りなく純粋にまで近づいた「アニメ」だ。

 ストーリーとしては、一般的な観点からはまったく評価できない。ありきたりな美少女押しかけモノの骨格そのままである。まったくうだつの上がらない主人公のもとに、そいつをなぜか好きになった美少女が押しかけ、あれこれ事件が起こるうち、主人公は「美少女を守る」と宣言して終わる。そして、その過程においては、美少女は単なる所有物としての価値しか見いだされない。つまり性的奴隷であったり、癒しの源泉であったり、自分の寄りかかる何か、自分を無条件で承認してくれる何かであったりする。

 普通、そういった美少女系妄想作品は、少なくとも思春期前後の登場人物が現れる。なぜなら、そういった感覚を持つのが普通その時期だからだ。だが宮崎駿は違う。それを五歳の幼児でやってしまうのだ。五歳の幼児に、本来性的であるはずの妄想を投影し、ぶち込むのである。そして全編にわたってそのことを隠そうとしない。もしフェミニズム的に見るなら、最低の行為である。吐き気すら催す。だがこの作品は妄想でありファンタジーである。それゆえに、私が倫理的嫌悪を感じようと、宮崎駿が真性の日本最強のロリコンであろうと、もはやどうでもよい。

 大事なのは、その構造と映像が、すべて宮崎駿の狂気を支えるために、あるいは狂気を表現するためにあるということだ。そう、ストーリーと同様に、現れるアニメーションそのものも(おそらく半意識的に)狂っている。ここでは物理世界の法則などには縛られない。建物のパースも狂っていれば、波の動きや姿も(魔法の力によって)化けており、登場人物もどこかみな異常なところがある。状況と描写が乖離し、すべての整合性などもろくも崩れ去っている。宮崎駿の何か常人には理解しがたい欲望という狂気が、まったくそのままアニメとして立ち現れている。

 言ってしまえば、このアニメから正気であるところを探す方が難しい。理性で解釈しようとすればするほど、それは無効化されていく。狂気、狂気、狂気。フィルムからあふれ出す狂気の洪水が、人々を圧倒せざるを得ない。そして終わった後、とどめの人心惑わすあの歌が流れた後、人々は不安定な状態に置かれる。だが、人は普通、不安定な状態に置かれると、安定した状態に戻らねばならない。何か解釈せねば。どうにかして安定せねば。

 「ポニョかわいかったよ」「素晴らしい映画だったよ」「愛っていいよね」「心が洗われたよ」「終盤って死後の世界のことだよね」

 だが、その本質は狂気である。フィルムの動いている時間のあいだ、映像とそれを見る人間のあいだで繰り広げられる狂気のせめぎ合いだ。

 かつての宮崎駿監督のアニメでは、そのバランスが絶妙であり、素直にそのせめぎ合いが「気持ちいい」と感じる人が多かった。だが、もはやポニョにおいては、狂気の方に迫りすぎている。このフィルムは狂気であることを隠しすらしていない。全裸だ。そうだこのフィルムは全裸だ。

 それでも自分を安定させるためにポニョを解釈するか、もしくは狂気であることを認めて、自らを不安と悪夢の底へと突き落とし、恐怖と戦慄にあえてまみれるのか。

 最後にもう一度断言しよう、アニメは狂気だ、ポニョは狂気だ、それゆえにポニョはアニメだ。純粋に限りなく近づいたアニメだ。であるからこそ、こんなものは映画史に残らざるを得ない。私やあなたがどう解釈しようとどう感じようと、そんなことは無関係に、これはアニメであると同時に映画史に陰鬱と残るだろうし、この映画を作り上げてしまった宮崎駿と日本とそしてそこに住む我々は、もはや幸福なのか不幸なのかすらわからないだろう。

 ただ残るのはアニメによって魂を持ってしまった混沌だけだ。ものすごい迫力と生命力でもって襲いかかってくる狂気とカオスだ。そんなものを目の前にして、いったい何ができるというのか。宮崎駿はこの作品を幼児向けの作品と言った。だがこの『崖の上のポニョ』は、おそらく世界がまだ混沌としたままのゼロ歳児しか正常に視聴することはできないだろう。

崖の上のポニョ』(二〇〇八)
アニメーション制作:スタジオジブリ
監督:宮崎駿