アニメ評論/批評を書いてみること 2
アニメを語るときに、ストーリーに触れなければいけない(?)というのは、一種のストレスでもあります。物語の内容に触れて終わり、というアニメ評論なり批評なりに閉口している人は、かなり多いはずですよね。あるいはアニメにちりばめられた記号を拾って何かを語ったような気になるとか。初期段階では『唯物論研究』の宮崎駿論リストにはそのへんの不満や暴言がたくさんあったのですが、ページの都合上なくなりました。それでもあれには各方面から苦情が来たそうなんですけどね。
じゃあ画面だけ読めばいいのか、と言われると、何だかそれにも納得できません。アニメとマンガとは違うわけだから、絵がうまい、美術がすごい、というだけで面白くなるわけじゃないですし。それを語ればアニメのすべてが語れるとも思えません。そこから抜け出そうとすると、
- ストーリーと一枚絵はとりあえず横へ置いておく
- 画面は画面でも演出の方を読む
- 画面以外の「時間的な構成要素」を考える
- 「(TV・劇場)アニメであること(状態/環境)」を考える
- アニメのアニメたるゆえん(アニメの何が独自なのか)を考える
みたいな。
そのあたりからの習作がもう一本。こちらも「アニメと狂気」の同じころの執筆で、頭のなかには『サザエさん』とかああいう作品の存在を、脈々としたアニメ史の流れのなかに想定した上で書いてはいます。忙しい毎日だからこそ、一週間に一度やってくる不変の空気は大切だよね、とは個人的に思います。
(つづく)