Baker Street Bakery > パン焼き日誌

ある翻訳家・翻訳研究者のサービス残業的な場末のブログ。更新放置気味。実際にパンは焼いてません、あしからず。

アニメ評論/批評を書いてみること 5

批評がリアルである必要なんてないかもしれません。けれども、個人的には何かをしゃべるときに、それが自分にとってリアルなことなのかどうかを考えてしまいます。つまり、評論なり批評なり何でもいいんですが、語る行為が常に創作なり管理なり入力なり翻訳なりの実作業と両輪でないと、どうしてもしゃべれないところがあります。
どうして人は評論/批評的なことを考えるのかというと、そのひとつに大きなクリエイタなり作品なりに近づきたいということがあるのかもしれません。もちろん創作の秘密に迫りたいというのは、単純な受け手の場合もあれば、それを追いかける若手クリエイタの場合もあるのですが、後者では何としても「技術」なり「力」なりを奪い取りたいという切実な欲求があるわけですよね。

むろんカリキュラムとして「教えてもらう」ことも可能なのだけれど、クリエイタとして先輩の創作を「見て」、その技を身体で覚えたり、分析して取り出したりもします。どっちかというと教えてもらうより自分でもぎ取った方が実になったりすることもよくあります。少なくとも自分にとってはそっちの方がリアルであるわけで。

その「アート(創作法)」を何とか手に入れようとして分析した結果が、評論/批評になることがあるわけでして。そうすると評論/批評のようなものが若手のときにしかできないということも、若手が躍起になってやろうとしがちだということも、よくわかるような気がします。

逆に言うと、それに価値があるのだとわかっていながらも、語るだけの非生産的な評論/批評に対しては、いささかの違和感を感じてしまいます。ある作品を「好きだ!」という愛情にあふれたものに関しては別にそういうこともないんですが、語るために作品を利用するというやり方には抵抗感があって。いや、利用してもいいんですが、それでも自分と対象がガチに格闘しているというか、せめぎ合ってその結果融合すらしてしまうような、そういう迫真性があってほしいと思ってしまいます。(というのは小林秀雄の影響がうっすらあるのかもしれませんが。)

何かを創るために一生懸命考えながら言葉を吐き出している若手がいて、もしかするとそれはクリエイタになろうとする前に「吐き出さざるを得ない」切実なものなのかもしれませんが、もしそうであるなら、切実なものであるがゆえに、その言葉を「出してはならない」と制限してはいけないように思います。若手が「出したもの」は、そもそもは自分のためのものなのだけれど、もしかしたらどこかでお互いに呼応して、響き合っているかもしれない、などと思うこともあります。

これから先、自分を含めたその人々がどこかで出会うのかどうかはわかりません(出会えればいいと夢想はしますが)。途中でやめてしまう人もいるでしょうし、成功する人もいるでしょう。それでもその言葉たちが創造の血となり肉となっているなら、そのひとつひとつは無駄ではないのだろうなと。評論/批評が「創造」の役に立つ形があるとすれば、私にはそういうものしか思いつきません。

もちろん環境整備のための評論/批評はまたそれとは別で。ある創作が受け入れられていく準備をするのは、創造の衝動ではなくて、観る方の「愛」で、また別のリアルの話なのだと思います。自分の「愛」を他人に素直に伝えられるような評論/批評があれば、私は素直にそれを応援したいです。

もしかしたら私にとっての『KEY THE METAL IDOL』はそういう作品なのかもしれないし、おそらく「創造」のためのものと、「愛」のためのものは混ざり合っているのかもしれません。きっと、きっちり切り分けられるようなものではないのでしょう。

「愛」っていうのが文化的に、言語的にどんなものかっていうと、「ある何かとある何かがあって、つながりあっていない。その上でそのふたつをつなげたいって思うことと、それがつながった状態」、そのことを「愛」と言うんですよね。

だから「布教用」にモノを買っておく、というのはある意味、素直な「愛」の行為として正しいのだと思います。でもとにかくアニメのためには、アニメファンが、アニメ好きな人が、そうでない人に対して、ちゃんとアニメのことを語れるのかどうか、アニメを布教できるのかどうか、そういうのが実は試されているんじゃないか、と思うこともあって。

宣教師的な考えですよね。ちゃんと相手に布教できるかどうか、という問題が、自分のその対象への愛が試されている、という問題とシンクロしてるんです。非常にわかりやすい話として。

そんな「愛」の評論/批評なら、いくらでも読みたいです。でもただ語るためだけにアニメが使われた、そんな評論/批評なんて一文字も読みたくありません。「私はあなたの話が聴きたいんじゃないんだ、アニメの話が聞きたいんだ!」、そんなふうに叫んでしまうかもしれません。同じことを考える人が結構いらっしゃるような気がします。

それはつまり、今の段階では、「あなたの話が聴きたい!」と思えるようなアニメ評論家/批評家がいないということなのでしょう。その「アニメ愛」がわかるほどの、伝わるほどの活動をしている人がいない、ということなのかもしれませんが。それは人そのものがいないのか、状況がその人の存在を隠しているだけなのか、どっちなのかはわかりませんが。

次の書き物は、つい最近考えていたことのメモです。自分が日々シナリオ仕事をこなしながら考えているだけに、対象としては切実なんだけれども、時間に追われて書きっぱなしにならざるを得ない、そんな中途半端な代物です。アニメをつかもうとしてもこぼれ落ちていく何か。あるいは、演出でもなくアニメータでもなく、ましてや業界の隅の隅にしかいない脚本家が、アニメに向き合うにはどうしたらいいかを悩んだあとのただの残渣。

山本寛監督が若手演出時代に書いた日々のアニメとの格闘の記録を、「妄想」と呼びたかった気持ちが、今ならちょっとわかります。

(ひとまず了:ここまで読んでくださった方々に多謝)