一クール・シリーズ構成考(メモ)
序
これまでアニメのシナリオについて書かれた本はいくつかある。鳥海尽三『アニメ・シナリオ入門 (シナリオ創作研究叢書)』、星山博之『星山博之のアニメシナリオ教室』、冲方丁『冲方式アニメ&マンガ ストーリー創作塾』、雪室俊一『テクマクマヤコン―ぼくのアニメ青春録』、山崎敬之『テレビアニメ魂』などなど。さらにTVアニメという三〇分弱の時間、劇場アニメにおける時間の構成について書かれたものを含めると、もう少し数は増える。
アニメが時間とともに進んでいく芸術である以上、その時間における脚本・シナリオの表現法を考えることは、アニメの表現論を考えることのひとつともなりうる。何も絵や画面ばかりがアニメではないのだから。
三〇分弱という枠はアニメの基本的な時間だ。だが現代のアニメを考えるとそれだけが重要な時間枠だとは言い切れないところがある。数多くのアニメが取る一クール(約一二話)という形態――それも連続TVアニメという作品パッケージのなかで軸となるべき時間の流れだ。
だがその一クールの構成について詳しく書かれたものがあるかというと、残念ながら私は知らない。最初に上げた本にもそういったことは書かれていない。あれば切実に教えてほしいのだが(もしかするとシナリオ学校等の教科書ではあるのかもしれないが)、それは別としても、これからのアニメが「ドラマ」の演出を目指していきたいと思うなら、その一クールの構成をしっかりと創ることは重要になってくるはずだ。
本稿では、その「一クールのドラマ」を構築する際に必要な構成というものを考えることが主題である。
ボトルショーの問題
一クールのドラマを構築する際に気になるのが、ボトルショーが必要か否かである。
ボトルショーというのは、全体の本筋には関係がなく、全話のどのあいだに入れても成り立ちうるような、一話完結の物語のことを言う。それはただ単に話数を消費するだけのものの場合もあるし、本編とは別にキャラを掘り下げるために使われることもあれば、番外編のときもある。まれに作品自体を批評的に描き、その作品だけで芸術的完成度を誇ってしまうことすらある。
その性質上、一話完結で、キャラをある時点の設定から不変のまま(変わってしまうと本筋に影響が出る)扱うことが多いので、ボトルショーと「萌え」は非常に相性がいい。むしろ「萌え」アニメなるものは、最初から総ボトルショーを運命づけられているようなものだ。萌えコンテンツにおいては、キャラの性格や設定は不変で固定しなければいけない。キャラ同士の関係性も変化しない。そうすると、どんなエピソードを創ろうとも基本キャラは不変であるので、その順番は互いに変更可能である。
『ひだまりスケッチ』で時間軸がシャッフルされようとも、視聴には何ら影響を及ぼさないのは、それが基本的にキャラコンテンツであるからだし、『涼宮ハルヒの憂鬱』がシャッフルされることで構成としての効果を高めるのは、その物語が常に「キャラとしての不変」を主人公として願うものであるからだ。
さらに言えば『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』『ドラえもん』などの長寿アニメによって、すでに私たちは「サザエさん時間」という擬似的な時間軸のシャッフルを体験してしまっている。いずれもキャラが「不変」であるからこそ可能なものだ。
ただし「ドラマ」を構築しようとする場合、そのボトルショーはある種の問題性を帯びてくる。なぜならドラマはキャラ同士の関係性の変化や衝突でもって、物語としての起伏を創っていくからだ。二クールあれば、ある時点でのキャラを深く描くためにボトルショー的なものは入れられるかもしれない。だが一クールにはたったの一二話しかない。そこにボトルショーなど、果たして入る余地があるのだろうか?
ここでふたつの作品を比較してみよう。以下は元永慶太郎[監督]、上江洲誠[シリーズ構成]による一クールアニメ『School Days』と『あかね色に染まる坂』のサブタイトル一覧である。
School Days | あかね色に染まる坂 | |
---|---|---|
1 | 告白 | あかね色のファーストキッス |
2 | 二人の距離 | あかね色のアプローチ |
3 | すれ違う想い | 怪奇色のスクリーム |
4 | 無垢 | 藍色のマッドパーティ |
5 | 波紋 | あかね色のファーストデート |
6 | 明かされた関係 | 山吹色のモンターニュ |
7 | 前夜祭 | 鋼色のフェスティバル |
8 | 学祭 | 黄昏色のデザイア |
9 | 後夜祭 | あかね色のバースディ |
10 | 心と体 | あかね色のコンフュージョン |
11 | みんなの誠 | あかね色のパズルメント |
12 | スクールデイズ | あかね色に染まる坂 |
言うまでもなく、『School Days』は全体を緊密なドラマとして構築し、その有無を言わせぬ迫力で評価を得た作品である。一方で『あかね色に染まる坂』はドラマ部分とボトルショー部分を混在させたために、いささかドラマとしては迫力不足になってしまった感の否めない作品だ(だがコンテンツとしては標準的なレベルに達していると思う)。
『あかね色に染まる坂』でのドラマ部分とボトルショーは、制作者の意図として判別しやすい形になっている。ドラマ部分は「あかね色の〜」というタイトルで始まり、ボトルショー部分はその他の色がサブタイトルに冠されている。ふたりのヒロインが主人公への「想いを表に出さない」という設定によって一クールのドラマのなかにボトルショーを挟み込むことが可能となってはいるが、設定は設定のままで終わり書き込みが浅く、ドラマへ大きく貢献はしない。
もちろんシリーズ構成としては、複数の脚本家体勢でボトルショーを入れると、緊密なドラマを複数人で構築するよりも作業が楽になる。ただしそこでドラマを展開させようとすると一クールのたった半分ほど、残りの五、六話ほどで物語の起伏を作らなければいけない。そうすると時間としては劇場アニメと同じ程度になり、単純な起承転結以上のものは創りづらくなるだろう。
それでも劇場アニメならば一気に観ることができる。だがTVアニメでは三〇分弱で一週間の休みがある。ボトルショーを入れれば、もっと多くの時間が空いてしまう。三週間おきの起・承・転・結。そんな状態でうまく視聴者の心のなかに「ドラマ」を構築しうるだろうか、答えは否、である。
成功したドラマを参考に
近年うまくドラマを創り上げた一クールのTVアニメ作品として、『School Days』の他に『ef -a tale of memories』や『喰霊-零-』『true tears』などが挙げられる。
このいずれにも共通していることは、ボトルショーの不在だ。一クールのなかで常に物語やキャラ・関係性が変化し、うねりを見せる。次々とめまぐるしく変わり展開していく物語に、自然と次回まで惹きつけられるのだ。
まず始まり方を考えると、高山カツヒコ[シリーズ構成・脚本]の『喰零-零-』は成功したもののひとつだ。普通、物語を始めるときに第一話で話や登場人物を紹介しようとしてしまう。しかし、今の視聴者は第一話だけを観てその作品を見るかどうかを決めることが多い。そのたまたま観た初回が面白くなければ、視聴者は離れていってしまうのだ。同脚本家『ef -a tale of memories』の初回の失敗はまさにその点にあるとも言える。
そうするとドラマとしては話の紹介を放棄してでも人を惹きつけるモノが必要ともなる。だからこそ、まず初回が抜群に面白くなくてはいけないのだ。『喰零-零-』はその点で話題と関心をかっさらうことに成功した。『涼宮ハルヒの憂鬱』もそうだが、別段これがTVアニメにとってめずらしい手法というわけではない。これまでアニメで第一話を原作の初回ではなく面白そうなエピソードから始めることはあるし*1、ある意味、定石とも言えるだろう。
また、一クールアニメでは盛り上がりを二回作ることがよくある。起承転転結や、起承転承転結、起承転結承転結みたいな形を取る。その一回目の頂点は、全体から行くとちょうど半分のあたりか、それよりも後ろ、六話か七話あたりに置かれることが多い。さらに言えば、その第一回目の盛り上がりに何を持ってくるかが、そのアニメがどういう性質のものなのかを受け手として考える点、あるいは創り手として示す点で、たいへん重要になってくる。
いわゆる神回がそのあたりに集中しているのも、その作品の本質を示す回が第一回目の頂点にあるからだろう。『ef -a tale of memories』の第七話は言うまでもないが、『紅 kure-nai』の第六話がミュージカルなのはその作品が会話劇であることを浮彫にしているし、『かんなぎ』の第七話はそのアニメがある種の(スタッフあるいは登場人物たちの)悪ふざけであることを示してもいる。
こういったことを参考に理想的な一クールTVアニメのドラマ構成時間を整理してみると、簡単には次のようになる。
- 強い引き込み
- 話の趣旨+登場人物の紹介
- 予感
- 展開・発端
- 行動
- 困難 (↑⊥:先へ1話詰める場合、)
- 成功・失敗(↑⊥:さらに2話分に延ばす場合も、)
- 余韻・不安(↑⊥:ただし後ろへはあまり延ばさない。)
- 転機・決心
- 大問題
- 闘争・焦燥
- 決着+事後
全体としてはこのような流れをとりつつ、各話のなかでも小さな起承転結(あるいは序破急)を作り、さらには来週へと続く「引き」も用意しなければならない。
このアニメ特有の時間が、原作ものをアニメにする際の難しさになることがある。もちろん原作の流れをそのままアニメ化しても、この流れと一致するとは限らない。終着点の確定していない連載マンガがそれほど全体構成を緊密に創っているとは思えず、それをべったり移してしまうと、一クールでは失敗してしまいかねない。
ライトノベルも一見やりやすそうだが、『狼と香辛料』のように一クール二巻できれいに終われるほどのボリュームがそれぞれの作品にあるとは限らない。『とある魔術の禁書目録』で一巻分に五〜六話使うと間延びしてしまうし、三巻程度でテンポ良く構成した方がうまく行くようなものも結構ある。『とらドラ!』は二クール作品だが、一巻を二〜三話できれいにまとめている良構成で、構成の2にあたる部分をあえてオリジナルで加筆している。
登場キャラの多いADVゲームでも、ドラマとしての筋を一本にまとめきれずに空中分解する作品も少なくないので、キャラものとしてボトルショーに徹するか、あえて要素を切り捨ててドラマに再構築するかが、成功の分水嶺とも言えよう。
アニメのために
もちろんアニメはシナリオだけで出来上がるものではない。序に戻れば、絵も画面もアニメなのだと言える。ただしシナリオと絵や画面、あるいは演出がかみ合っていないアニメというのもある。願うならば、そのすべてが有機的につながって、相乗効果が現れてほしい。
そうだ、もしシナリオとともに、構成とともに、アニメそのものが自在に変化してゆくのであれば、これほど「アニメらしい」ものはないだろう。作画も、演出も、演技も、音楽も、すべてが時間の展開とともにうねっていくのであれば、それこそ本物の「ドラマ」としての「アニメ」が現れるのかもしれない。
ただしアニメというのは集団作業である。作画や演出を統一することは、効率的な作業にとって不可避なものとさえ言える。作品として一貫したものを創り上げるとしたら、それをまとめていかなければならない。最低限必要なものとさえ言える。だが、その最低限をクリアした上で、「アニメ」として生き生きと「変化」していくことは可能だろうか。アニメという時間とともに、そこで構築された物語の動きとともに、絵も音も何もかも同調してひずんでいくことはありえるだろうか。
ありえる。いや、ありえてきた。そしてそれこそがアニメの気持ちよさであるはずなのだ。宮崎駿がそうだ。その名前が監督として冠されたアニメ作品では、時間とともに物語が展開し、アニメそのものも気持ちよく動いていく。そして音楽も場面に合うよう作曲され演奏されるのだ。たとえドラマがあっても、演出的制限を枷としてはめられてしまうと、『true tears』のように窮屈な映像になるのかもしれない。ドラマとしての快楽は確かにそこにあったが、「アニメ」としての快楽はあの作品にはなかったのだ。
『新世紀エヴァンゲリオン』は気持ちよかった。なぜならば、あの作品は物語の崩壊とともに、描き出されるアニメそのものも崩壊していったからだ。演出も作画も演技も、同期してぼろぼろになっていく。それまで宮崎駿的なものが創り上げてきたアニメの文法それ自体も壊していくほどの狂気があそこにはあった。
だが壊しきれなかった。本来のアニメは純粋たる狂気であるはずなのに、アニメの文法はそれを正気という形に整理し、毒のない娯楽として商品化していった。『エヴァ』はそれを壊そうとしたにもかかわらず、最終的には「映画」というパッケージに狂気を封じ込めてしまった。封じ込めることが悪いということではない。その結果創られたものはまた娯楽として有用なものであるし、芸術として成功しているものもある。狂気を正気に近づけていくのもまたアニメの運命なのだ。
しかし生(なま)のアニメへの衝動を忘れるのはどうだろうか。正気だけがアニメではないのだ。『エヴァ』で狂気のアニメが封じられて以降、ふと現れた新房昭之や山本寛が見せたアニメというのは、あるいは菅野よう子の音楽とともに繰り広げられるアニメというものは、その狂気へと向かうひずみではなかったのだろうか。エヴァに一瞬見えた生のアニメを蘇らせようという試みではなかったか。物語に合わせて記号を過剰化させること、アニメを過度にすること、音楽とアニメを同調させること、それはみな生のアニメへの衝動であり、入り口であったはずだ。
新房昭之の切り開いたひずみの向こうにある、大沼心[監督]・高山カツヒコ[シリーズ構成]の『ef -a tale of memories』は、そういう千変万化なアニメの本質と物語の時間が融和した、幸福なTVアニメであった。実写ではないアニメにしか創り出すことのできない記号的狂気の世界に我々は酔いしれ、涙を流した。あるいは『マクロスF』における、菅野よう子の楽曲と同期して画面上を踊るランカ・リーに、絶唱するシェリル・ノーム。物語としては理解に苦しむし、何が起こっているかもわからないにもかかわらず、ただただ気持ちいい時間だけが流れ、ドラッグのようにリピートしたくなるアニメがそこにあった。その瞬間、我々には「キラッ☆」という星が本当にリアルなものとして見えたのだ。
だが『崖の上のポニョ』だ。あるいはあのときの『もののけ姫』だ。あそこには狂気がある。やはり宮崎駿が先を行く。あの男には誰にも勝てないのだろうか? いや、そんなことはない。あそこには「ドラマ」はない。あるのはただ狂気だけだ。ただ狂っているだけの生のアニメしかない。最初から狂気に浸れないものは、あのアニメでは気持ちよくなれない。湯浅政明の『カイバ』にしても残念ながらそうだった。
これからのアニメにとって大事なのは、流れる時間のなかで、ドラマの力によって、正気のアニメから始めて、最後にアニメの狂気への扉をこじ開けることだ。ついに『エヴァ』が果たし得なかったものを達成すること。宮崎駿が狭間のなかで格闘しつつ、最後には振り切れてしまったものをうまく創りきること。
時間とともに物語も絵も音もキャラも声も変化していく、まるで狂気のような気持ちよさ。そのハーモニーこそがアニメの快楽だ。そしてそれとともにアニメだけでなく社会も、そして世界も変化していくのだとしたら、こんなに素晴らしいことはない。
アニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』で、「ハレ晴レユカイ」なるアニメの快楽によってほんの少し世界が動いたとき、その瞬間にはやはりほんの少し、「アニメ」なるものの正体が垣間見えたはずだ。アニメが魂を吹き込むのは画面だけではない、キャラだけではない。もしかするとそれを見ている人間そのものにも、そこに現出した魂を伝染させるのかもしれない。
そうだ、私たちはもう少し、アニメの力を信じてもいい。