Baker Street Bakery > パン焼き日誌

ある翻訳家・翻訳研究者のサービス残業的な場末のブログ。更新放置気味。実際にパンは焼いてません、あしからず。

著作権とコンテンツのこと

観客の視聴意欲や購買意欲を殺いでしまうような著作権知的財産権の主張は全くの本末転倒だと思うのです。
そんなに自分の作品が惜しいならTV放送もDVD販売もやめて美術館にでも陳列しておけっていう。

山本寛さんのような作り手からそうおっしゃっていただけると、非常に心強いところがあります。

私も知らぬ間に著作権分野の評論家となり、昨年はモノを書いたり他人様の前でお話しさせていただいたりするようになったわけなのですが、もともとは青空文庫というコンテンツを扱う団体の一員であり、さらにはコンテンツビジネスのなかで制作者として関わるプロの翻訳家でもあり、最近はコンテンツビジネスのアドバイザー的なこともしているので、昔のように単純視聴者でもなくなり非常に立場としては微妙になりつつあるのですが。

そんななか、直感的もしくは理性的に「著作権」の問題について理解していただける作り手がいらっしゃるというのは、評論家としてもアドバイザーとしてもとても嬉しいです。

著作権の問題になると、どうしても「保護と利用」というごくごく素朴な「権利者と利用者」という二元論で語られがちなのですが、私が口をすっぱくしていつも言っているのは、もはやそんな次元にいたらコンテンツなど扱えないし、モノも作れないし、商売をするなどもってのほかだということです。
もし今でも本気で「保護と利用」という分け方を信じているなら、その時点で今の文化の現状をまったく理解できていないし、時代錯誤もはなはだしいとさえ思います。すでに著作物の世界は「共有と保障」の世界に突入しているということを、あらためて認識すべきだと思います。

もちろんそれこそ本質的な「文化」であるわけですが、インターネット社会になってはじめて本質的なところへ突っ込んでしまったわけです。簡単にはパブリックコメントの際に説明しましたが、今の時代、コンテンツで商売をしようと思ったとき、「共有」は当たり前のこととして捉えなければいけません。

コンテンツが今のものであれ過去のものであれ、著作権が有効であろうと失効していようと、どちらの点にもかかわらずそうなのです。今の法律で「共有」が善であれ悪であれ、現状そうなっていることを理解しなくてはいけません。社会として文化としてすでにそうなってしまっているのですから。

そうした場合、今までのように「保護」を武器として商売をするというのは、戦略的にも間違っているし、道義的にも間違っています。今のコンテンツは「共有」という場所で戦わなければいけません。そのとき、いくらお金が欲しいから、いくら自分のモノを自分のモノのままにしておきたいからといって、「保護」してその「共有」の場所から隔離したとしても、そもそも戦う場所にすら下りてこられないのだから、勝負にすらなりません。

そしてそこに下りてこないということは、モノを作っても「文化」をやろうという気もない(人に作品を見せようという気もない)ということであり、創作者としての態度や資質を問われることだと思います。

このエントリではあえてかなり雑に説明しているのですが、要点をまとめると、創作者・製作者の側としては、もう「保護」を強化して利益を最大化しようなどというやり方はどう考えたって古すぎるのです。「共有」を前提として受け入れた上で、その「共有」の場でいかに利益が最大化されるかということを考えなければならないのです。(その意味では角川グループ、サンライズ、そしてバンダイチャンネルのやり方も興味深いです。)

もちろん、私の仕事としては、文化の受け手としての「共有」と、文化の作り手としての「利益」、そのどちらもが最大化する方法やあり方を考えなければならないわけですが、そのふたつは対立するものでないことは明らかです。「共有」のなかでの「利益」の最大化を考えるわけなので、「共有」が大きくなればなるほど「利益」も大きくなるからです。そして「共有」というときも、もちろん無償の共有だけではなく、有償の共有も含まれます。それは文化としての「共有」ということを考えているからです。

「共有」という観点については、創作そのものについてもとても重要なキーワードだと思っていて、これから語らなければいけないことだと思います。特に今回トラックバックを送らせていただいた山本寛さん(以前にインタビューさせていただきましたが)については、よく「オタク心をくすぐるのがうまいクリエイタ」などと言われますが、私はこの意見には同意できません。非常に浅い点でしかものを見られていないと思います。

そうではなくて、山本さんは「人の『共有心』のようなものを刺激するのがうまい」のだと思います。その「共有」には、受け取った人が「単純にそれを人に紹介したい見せたい語りたい」という気持ちもあれば、「自分が真似をしたそのプレイを人に見せたい」という意味の「共有」も入っていると思いますし、「そのコンテンツ(あるいはキャラ)を一種の『神』として共有したい」という信仰に近いものも含まれているはずです。

山本さんはそのあたりを理解してモノを作っている気が、私にはします。そこで山本さんが次作に『かんなぎ』という作品を選んだとき、「うわっ、あざとい!(笑)」と思ったのですが、同時に現状理解が適切だと敬服もしましたし、結果コンテンツとしてはナギ様ではなく山本さんご本人に注目が集まってしまったことが少し残念でもありました(詳しくは別の論として書かなければいけないことですね)。

そしてこれからのコンテンツホルダーなり作り手なりにとって、そのあたりのコントロールをどうしていくか、というところが課題としてあるわけです。「保護」だけではなくて、「共有と保障」に関してどのように設計していくかを作り手・送り手として考えなければならないと。いかに「共有」してもらうか、そしていかに「保障」としての収益を上げるのか。

さて、ここで個人的な近況ともクロスしてくるのですが、どうしてもこういうことをちゃんと本にまとめなければいけないな、と思っていて。ただ単に仕事する際に一から説明するより本渡した方が楽だ、とかいう身も蓋もないところも少しはあったりするのですが、今まで講演なり記事なりで書いたことを一個の思想としてまとめる必要があるのだろうと思っています。

できれば年内には、著作権と共有と創造と文化についての本をまとめられればと考えています。まだ2月が始まったところなので、遠い話ではあるのですが。たぶんこのあたりの議論ももっと詰めてご紹介できるかと思います。