Baker Street Bakery > パン焼き日誌

ある翻訳家・翻訳研究者のサービス残業的な場末のブログ。更新放置気味。実際にパンは焼いてません、あしからず。

アニメ評論/批評を書いてみること 3

今度はそこからさらに数ヶ月が経って、秋ごろ。私は昨年から職業として本格的に「脚本」と「音・声」にかかわるところで生きているわけなんですが、だったら自分が「切実なもの」として書けることっていうのは、そっちあたりにあるんじゃないか、などというふうに考えていました。

もともと演劇出身の人間なので(+映画好きですが)、声優さんの演技はすごく気にして聴いています。いや、だからこそしばらくの期間、アニメが見られなかった(聴けなかった)ということでもあるのですが。(宮崎駿言うところの「娼婦の声」ってやつでしょうか。)

そんな私にとっては『紅 kure-nai』は衝撃の作品でした。もちろんDVDも全巻買ってイベントにまで行ったわけですが、そこまでひきつけられたのは「演技」のせい。下の批評のなかではやたら「ストーリーは面白そうじゃない」とか書いてますが、別に脚本は悪くないし、むしろよく会話が練れていて、演劇人の言ういわゆる「せりふ」ってやつに見事になってます。

でも、この作品の面白さを語るときに前述の通りあんまりストーリーの話をしたくなくて。確かにウェルメイドではあるけど、新しくはない。もちろん台詞の完成度とストーリーの新奇さなんて別物なんですが、台詞の話をしちゃうとストーリーにも触れちゃいそうなので、あえて禁忌にして、「声」の方を思いっきり前面に出しました。

そこでまあ、だったらもういっそのことはっちゃけて、アンサイクロペディア風に書いてみるのもいいんじゃないかと思うに至りまして。もちろんその書き方が成功しているとはとても言い難いけれど、「まじめじゃない」文章で「まじめに語る」っていうのは、大事ですよね。

次の習作も内容自体に新しいところはなくて、知ってる人には既知のものなのだけれど、課題として「どうそれを人に伝えるか」というところがあります。つまり「アニメ批評の文体を考える」ということですね。山本寛監督がインタビューのなかで強調していたことのひとつです。(模索中だったから、ちょっと中途半端感が否めませんが。)

批評をエンタメとして成立させるのなら、批評家&その文体自体もキャラが立ってた方が見ている分には面白いのだと思います。交換可能な文体っていうのは、宣伝文や解説文・評論文には向いてるんですけど、批評としては刺激が足りません。しかも「文体」というのはそれを選んだ時点で、たいてい読者層も自動的に縛られることが多いので、そのあたりの閉鎖性にも自覚的である必要があるんですよね。

キャラを立たせるならVNIでもいいんだけど、そうすると読者層が限られるのを覚悟した方がいいよ、みたいな。

(つづく)