Baker Street Bakery > パン焼き日誌

ある翻訳家・翻訳研究者のサービス残業的な場末のブログ。更新放置気味。実際にパンは焼いてません、あしからず。

アニメとベンヤミンと翻訳

サイトを巡回していると、id:tukinohaさんのところで、翻訳とアニメに関して触れた記事を発見したので、翻訳研究の専門家として反応してみます(勝手にやっちゃって申し訳ございません、tukinohaさん。どうかご容赦を)。今回は当該エントリをご参照しつつお読み下さい。

まずはベンヤミン「翻訳者の課題」における「純粋言語」の話なのですが、厳密な話はとりあえず置いておいて(あと「純粋単語」というものが存在し得ないことを前提として)非常にざっくりと俗っぽく読んでしまうと、それは「ある原典にどれだけ翻訳を重ねても、その核になるようなものが残るんじゃないか」というようなことです。

たとえばAというオリジナルがあって、それがA→B→C→D→E→F→Gというように別の言語にどんどん訳されていった場合、それは伝言ゲームのように変質していって書かれた言葉も違えば表現も違い、雰囲気もニュアンスもまるで変わっていくのでしょうが、それでも何か同じものとして残っているものがある、それこそ本質的なものなんじゃないのかな、ということで。

翻訳の面白いところは、上手かろうが下手だろうが、それでも「伝わってしまう」ところにあります。ひょっとするととんでもない誤訳の方がものすごいインパクトを与えてしまうことさえあって、一概に忠実(というかそんなものを一義的に決めることは不可能なのですが)という側面では評価をすることはできないわけです。(むしろその「伝わってしまう」何かの方が重要。)

それで話を戻しまして、もし「純粋言語」に絡めて何かアニメを語れるとしたら、今期では『化物語』がいいのではないかと私も考えます。もちろん、あの話は西尾維新さんの特異な文体とキャラが突出して注目されがちなのですが(そのためにアニメに失望した人も多いようですが)、では逆に小説からアニメに変換したときに「純粋な核」として残り続けたものとは何だったのか、それを考えてみることは興味深いことなのではないでしょうか。

シャフトによるある意味で乱暴な「翻訳」に対して、それでもなお作品のなかにとどまり続けたもの――私が個人的に見えたのは、「西尾維新の物語構成力」でしょうか。言ってみれば(言って良ければ)、西尾さんの文章はかなり破格だし、アニメ『化物語』の演出もそれとは別物だけれど、また違う方向性に向かってかなりぶっとんでます。しかし、この乱暴でひとつ間違えば読む気も見る気も失せてしまいそうな表層のいわゆる表徴というものを、ものすごい力でまとめあげ「作品」と成し遂げているものがあって、それが「完成度の高い物語構成」なのだと感じました(とりわけ「まよいマイマイ」)。

……と、そんな見方もできるのですが、実はベンヤミンの翻訳論から「純粋言語」という要素を取り出すのは若干古くて、今は「死後の生」の方がどっちかというと主流でしょうか。これもざっくり言ってしまうと、「作品」というのは書かれ終わった時点で死んでしまって(書いているときだけ生きている)、それがそののち読まれることによって新しく生まれ変わり、それが繰り返されることでもって死後も生き続け、そして「純粋言語」へ近づいていく、というような話です。しかも、それがないと「純粋言語」へは向かえないわけなので、「作品は翻訳されなきゃいけない」と言っているようなものなのですが(至上主義の崩壊)。

ひとつには、古い原作がアニメ化されることによって、原作が新たな読者を獲得し、新しい読まれ方をすることによって作品の真価のようなものが現れる、みたいなこともあるかもしれません。近年ですと『地球へ』や『イタズラなKiss』があるでしょうか。もしくは日本の「長寿アニメ」は「死後の生」でもって「純粋言語」へ向かう、世界でもかなり稀な試みなのかもしれません。とりわけ著者自身が亡くなっている『ドラえもん』や『サザエさん』をその考察の対象としてみることはかなり有意義なことでしょう。

特に『ドラえもん』はその傾向が顕著ではないでしょうか。旧シリーズはかなり長年、反復して翻訳され続けたものですが、だんだんと原作にあったものが落ちていって、キャラにおいても作品の雰囲気においても「核」のようなものが残っちゃいましたよね。原作ファンからすれば旧ドラのドラえもんのキャラ造型なんてまるで違うのに、もはや大山のぶ代ドラえもんドラえもんだと思えるくらいになってしまっていて。でもそれは元と違うとしても、翻訳によって何か残ったものがあるのだと思います(しかもそれは、短編ではなく長編という形で原作にフィードバックされたのではないかと推測します)。

その上で、新しいシリーズでは原作に沿った形で再翻訳されたわけですが、それでもまったく別個の翻訳ではなく、やはり旧ドラで見つけた「核」を残したまま翻訳がなされていると私は見ます。それは日本テレビ版のドラえもんと比較すればわかりやすく、完全に旧ドラの影響を断ち切って新シリーズを始めたのであれば、あれくらい別物になってもいいわけです。けれども旧ドラ以降では、その「核」を引きずらざるを得ない――それは「死後の生」における「純粋言語」への引力とも言えるでしょう。

ただし、ベンヤミンだけに依拠して翻訳を語るというのは結構危険で(翻訳史の流れとしては彼はかなり特殊な例なので)、その点でid:tukinohaさんが酒井直樹さんの『日本思想という問題』を引き合いに出すのはもっともだと思います(この本はかなりの良書です)。この本における「言語措定」と「主体」の話はまた別の機会にすることと思いますが、要するに「原作」や「アニメ」というジャンル定義は、別に自明のものとして決まっているのではなくて、「原作」を「アニメ」化すると考えたときに初めてそれぞれの厳格な範囲が定められるのに、なぜかそれに「無意識」である、みんなそのことを自覚しましょう、みたいな話です。なので、「境界線を自明視しているという点」というよりは、「自分たちが恣意的に規定していることに無自覚である点」で同じなのでしょう、おそらく。

無自覚であるからこそその規定は壊れにくく、自覚してしまえば壊すのはたやすいのですが、規定した領域は壊したそばからすぐ固化していきますので、シャフトには「シャフトのアニメ」というイメージにとらわれずこれからも壊していってほしい、と思ったりもします。(というより個人的には『化物語』によってシャフトが壊されてほしい、かな。)

あと余談ですが、「自分にとっての日本語が少し変化」することは、必ずしも「他人にとっての日本語が変化」することではなく、相手にはただほんの少しの「違和感」が伝わるだけで、しかもそれはかなりの確率で「誤読」もしくは「妄想」されるものになります。このあたりのことは柳父章の著作に詳しいのですが(岩波現代文庫岩波新書にも入ってます)、それがいい方向に行くか悪い方向に行くかは難しくて、ちょっと成り行き任せのところがあります。ちょっとだけお気をつけください。

でも、そもそもの「翻訳者の課題(使命)」を読まないで原作つきアニメを語るなんて云々ですが、別にそんなこともないと思いますよ。役に立ったり、考えるヒントにはなるかもしれませんが……専門家としては「そうかなあ……たぶん又聞きや伝聞や要約レベルでいいと思うけど……」と感じます。あと、語るヒントにはなるけど創るヒントにはなりにくいんですよね、ベンヤミン

暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

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「ゴッド」は神か上帝か (岩波現代文庫―学術)

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翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)

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