和製ミュージカルとしての『劇場版マクロスF 虚空歌姫〜イツワリノウタヒメ〜』
みなさんは、ミュージカルがお好きですか?
と日本の人に聞くと、たいていの人が首を振る。理由を尋ねると「いきなり歌って踊り出して不自然」「なんで集団で出てくるの?」「みんな歌がうますぎるよ!」などなど、こういった答えが返ってきてしまう。
そこで「あれは生命の情動を表現していて、心のなかの盛り上がりは客観的な外見ではとらえにくいから、あえて精神の表象として心を肉体的な身体と歌で……」と説明しようとしても、毛嫌いしたみたいなそぶりをして、話を聞いてはくれない。
『雨に唄えば』『いつも上天気』『マイ・フェア・レディ』『ウエスト・サイド物語』といった往年の名作から、近年の『ドリームガールズ』等に至るまで、どんな作品も「不自然」「リアルじゃない」と一刀両断。
日本の客層とミュージカルは相性が悪いみたいで。歌と動きが組み合わさった映像作品って面白いのに……と思って作っても、観客の圧倒的に分厚い壁の前に、打ち破れる映画作品の数々。
――日本ではミュージカル映画が本当にできないのか?
そんな疑問に一筋の光明を差し込んでくれるのが、『劇場版マクロスF 虚空歌姫〜イツワリノウタヒメ〜』。
この映画は、ミュージカル映画につきまとう「映像・肉体の不自然さ」をアニメそのものの仮構性・混合性・作為性・荒唐無稽さで打ち消し、ミュージカル映画の本質たる「生命の情動」をこれまたアニメの本質である「魂anima」を映像に込めることで成立させる。
戦闘という極限状態のなかで交錯する戦闘機とモンスター、そして飛び交う弾幕に、戦場を駆けめぐるカメラ。すべてを無から創り出すアニメだからこそ可能な映像美とシンクロするのは――優れた音楽と、ふたりの歌姫の声。
映画の冒頭ではタイミングが一致するだけで乖離していた歌と動きのココロは、物語が進んでいくにつれて、その歌姫の歌う動機、歌わなければならない理由と重なり合い、やがてクライマックスでひとつになる――これがミュージカルでなく、何と言うのか?
もちろんシリーズ初代の『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』同様、シナリオの粗や破綻を数え上げたらきりがない。しかしミュージカルとはこれまでそういうものであったし、あらゆる不条理をまとめて生命の情動たる歌と動きの力でとにかく吹き飛ばしてしまう――そういうものであったはずだ。
――物語の不条理? 知らないわ!
――現実の不条理? 忘れさせてあげる!
――みんなが戦っている……それでも、だからこそ!
「あたしの歌を聴けえええぇぇぇぇ――――ッ!」
そしてフィルムは告げる、
「これが、アニメこそがオレたちの魂のミュージカルだッ!」