Baker Street Bakery > パン焼き日誌

ある翻訳家・翻訳研究者のサービス残業的な場末のブログ。更新放置気味。実際にパンは焼いてません、あしからず。

『エヴァ』(…)→『School Days』(笑)→『ヱヴァ』(!)――主人公と私とアニメを見る場所

アニメを単なる映像だけのものとして見るのはひとつの見方だと思うのですが(ニュークリティシズム的に)、個人的にはどうしても、作る人・見る人がいて、そして時代やら時間やらが流れていて、そんでもって見る場所もあるということを少なからず意識してしまいます。これはほとんど癖のようなもので、自分の研究分野やらが多少影響しているのでしょうが、その癖には自覚的でなければならないな、と思ってみたり。
とりあえず自覚的であるために、意識しすぎた形でつれづれと書いてみようと思うのですが、『新世紀エヴァンゲリオン』って、当時の流行り方や受け入れられ方を考えたときに、自分たちが見ていた環境というものがどこか不可欠であったようにも感じられるんですよね。

一九九五・六年頃っていうのは、核家族で子どもの少なくて比較的裕福な家になってくると、自分の部屋にテレビが置かれ始めるんです。もちろん兄弟がたくさんいてチャンネル争いをするような家もまだあるんですが、そういうわいわいとした家の子がシンジくんと悩みを共有はなかなかしないだろうし。両親がいるけど共働きで、学校から帰っても、家でひとりでテレビを見てお留守番っていう環境が、郊外を始めとして割とあって。

しかもパソコンが普及し始めるのはその少しあとだから、外で遊ばないような子だと、本当にひとりでテレビと向き合うしかないわけです。(一人暮らしの大学生も、活発じゃない人は下宿に帰って、ただテレビと……という同じ状況がありえます。)

で、思春期にひとりでいるとだいたい内省しすぎちゃうんですよね。あれこれと考えて、考えすぎて、どうしようもなくなっちゃうところがあって。そういうときに、唯一向き合っているテレビの向こうから、自分と同じように悩んでいるやつがいたとしたら。やっぱり引き込まれちゃうと思うんです。他にはどこにも逃げ場がないから、そこにくっついてしまって。いわゆるセカイ系と呼ばれる設定にもぐっと来てしまって。

同じ部屋に誰かいたりすると、さすがにそうはならないと思います。どこか客観性がもった形で見られたのだと思うのですが、テレビと一対一で、夾雑物がない状態だと、ものすごく主観的にテレビを見てしまうんじゃないかと。のめりこんじゃうんじゃないかと。見るのが狭い自分の部屋だったり、放送されたりするのが自分しかいない夕方や深夜だったりすると余計に。

そのアニメと自分との距離や場所っていうのは、『エヴァ』が流行したことと無関係ではないと思いますし、逆に今『エヴァ』が新番組として放送されたとしても、あそこまでは盛り上がらないと思う理由でもあります。

今の時代だと、インターネットがあって、2ちゃんねるがあって、ニコニコ動画があるわけじゃないですか。アニメを見ながら、みんなで実況スレやtwitterでわいわいやったり、あるいは違法なものも少なくないけれども、動画サイトでコメントつけながらみんなで見たり、そういうことが可能で。

シンジくんは優柔不断なんですが、テレビにのめり込んでいる状態で見てると、こっちまでもう苦しくてたまらなくなってしまいます。それはたとえ、自分とシンジくんの性格が違っていたとしても、思春期だとやっぱり少なからず感じてしまうわけで。でも、たとえば『School Days』の伊藤誠は同じように優柔不断なんだけど(たとえが悪い?)、やっぱり距離を取って「誠氏ね」ってコメントをつけるわけです。

エヴァ』のときは、そういう孤独な子どもっていうのはテレビと心中しかねない環境設定だったのに、今はインターネットや携帯があるから、アニメと距離を保ちつつみんなで笑うっていう環境がありえるんですよね。それに他人のコメントが差し挟まれることで、ちょっと我に返らされてしまうっていうところもありまして。

今、自分が思春期で『エヴァ』を見ると仮定したとき、やっぱりネットを活用してしまって、誰かの「シンジうぜぇ」なんて書き込みコメントなりを見たら、それほどシンジくんにはのめり込めなくなると思います。大人として懐古的に見るとしても無理かも。「そりゃあの子うざいよ、めんどくさいやつだよ」って思うから。みんなでシンジくんを笑っちゃうんだと思います。伊藤誠に対してそうしたように。

どう考えても、昔と同じような緊迫した状況で『エヴァ』を見ることなんて不可能なわけで、あれは色んなことがうまくはまってできた盛り上がりなんだな、っていうのがわかってしまって。エンドレスでDVDを視聴することはできるけど、もう子どもじゃないしなあ、という客観的な自分もいるわけで。

そうなってくると、「劇場」という場所はものすごく効果的な威力を発揮するわけです。かつて『エヴァ』を見て、成長してしまった元子どもたちが、何だ何だと、楽しみにしていようと、今更感で批判的な気持ちを抱いていようと、とりあえずは集まってしまって。客観的に考えたらどうしようもなく気持ち悪いと思うのですが、みんなで見ちゃうわけですよ、昔を懐かしみながら、新劇場版を。

そのときに出てくるシンジくんが前のままうじうじしててなよなよしてたら、ここは狭い部屋じゃないんだから、どうしても冷めてしまうような気がします。十年前の劇場はみんな若かったし、すでにエヴァに飲まれてたから大丈夫だったのかもしれないけど、もう十年も経ってるし、みんな大人だし。

でもそこで出てきたのは、頑張るシンジくんですよ。苦しみながらも現実と戦ってるシンジの野郎ですよ。そうすると、そこで目の前にあるものと自分たちがオーヴァーラップするわけで。自分たちの子ども時代はあんなに厳しかったけど、十年間オレたちは頑張ってなんだかんだ生きてきた。そう、オレたち十年前、シンジと一緒に悩んでたけど、本当はあのとき結構頑張ってたんじゃないか、そうだろ? なあ、みんな! だから行け――ッ! シンジィィィ――――ッッ!!!

というような形で、劇場が、過去を共有したみんながいるからこそ一体化してしまって。またシンジくんに自分を重ねて共感してしまって。まったく別物なのに、再構築されたヱヴァなのに。なぜか同じエヴァがそこにあるわけです。そういうふうに有無を言わせず巻き込んでしまうアニメ的な力が、ヱヴァにはあったといいますか。(特に『破』の方。『序』は正直かつてのエヴァファンでも意見が割れました。)

どうしようもなく気持ち悪いと思うんです、これ。自分も含めてのことですけれども(私の場合は若干状況が違っているので、友人たちを見ながら記述は一般的なものに補正していますが)。でも、そういうことなんじゃないかなと思います、『新世紀エヴァンゲリオン』とか『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の一種異様な盛り上がりっていうのは。

それだけに、「ぼくらのエヴァ」みたいな感じになるのは、とても怖いところもあるのですが。他の世代の人は、本当についてきてこれているのだろうか? みたいな。いや、たぶんついてきてこれてないですよね。でもこの『新劇場版』をまっさらな目で見られる人も、うらやましいと思います。そしてどんな感想を持つのか、聞いてみたいです。